∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

今日のつれづれ〈110812〉

【久しぶりの街】


 以前働いていた会社があった街へ久しぶりに出かけました。東京の中でも指折りのビジネス街です。今では、会社自体が引っ越してしまったので、残っていたのは入社してから20年くらい通ったビルだけ。知り合いなどいるわけもありません。
 一番驚いたのは周囲の風景の変わりようです。文字通り「たった数年でここまで変わるか」とあっけに取られてしまいました。
 街の風景が変わっていくのは当たり前のこと。在籍していた頃にも少しは変化がありましたが、ここまで大幅なものではありません。変化が起こったのは、この界隈が新たな都市計画地域に指定されてから。入社した時のビルにはまったく知らない会社が入っているし、二度目の引っ越しで入ったビルは新たな都市計画ですっかり無くなっています。ビルが変わり、公園が出来、道路が整備され、そして思い出のある店がなくなり……。


 あの懐かしい町並みは今日から僕の心の中だけで生きていくことになりました。


 その後、友人と会うために駅近辺に広がる飲食街へ。ここでも、見知ったはずのお店のいくつかが見つかりません。でも、人が行きかい都会ならではの雑音はあらゆる角度から聞こえてきます。多少風景が変わっても、街は生きていました。なんだかホッとしてしまいます。特に暗くなってからは、当時の空気が漂ってきたような気もします。「ああ、やっぱり変わってないわ」。
 どうも、ノスタルジーの世界に浸ってしまいましたが、こんな日があってもいいでしょう。時には若かった頃の想いに浸っても。


御巣鷹の尾根】


 1985年8月12日。羽田を飛び立ち伊丹に向かった日本航空123便群馬県三国山御巣鷹の尾根(御巣鷹山)に墜落しました。4名生存520名が死亡。現代とは違い、緊急事態への対処法が確立されていなかった時代の事、指揮命令系統の不備から救援活動の遅れも発生するほどの大混乱を起こした事故です。
 当時、よく出てきた言葉は「ダッチロール」「圧力隔壁」。「坂本久」さんをはじめ、社会の中心で活躍されていた方が事故に会われた大事故です。


 僕がどうしてこの事故のことを未だに覚えているのか。
 実はこの事故の後、2カ月ほど経った頃、僕も飛行機で「ここで死ぬのか」と覚悟を決めたことがあるからです。
 大雨が降っていた夜。アメリカ東部のローカルな路線を20人程度しか乗れない小さなプロペラ機で僕は移動していました。
 ストーン。突然、エアポケットに入りこんだ機体が落下。コーヒーカップも本もすべて機体の天井に張り付いています。シートベルトをしていなかった数人の乗客が天井に頭をぶつけ、怪我をした様子。窓の外を見ると、雨粒が下から上に猛烈なスピードで流れていきます。最初、騒然としていた機内も、落下が止まらないため、急に静かになってしまいました。
 その時、僕は御巣鷹山の事故の新聞記事を思い出しました。「多くの人が遺書を残していた」ということ。一瞬、僕も書こうかと思いました。でも書かなかった。書くことと墜落することがつながっているような気がして「書いちゃいけない」と自制しました。
 その後、機体は安定し、再度空気を捉え、上昇し始めました。
 これほどホッとした時はありませんが、同時にこれほど疲れた時もありません。もう、仕事なんてどうでもいい。とにかく早く降りて地面に足を付けたいと切実に感じたことを覚えています。
 このアクシデントの後も数えきれないほど飛行機を利用していますが、あれほど緊張したフライトは未だにありません。
 ある意味、飛行機事故で亡くなることの悲惨さを模擬体験したつもりになった僕は、あの御巣鷹山の事故も他人事とは思えなくなりました。……どうぞ、安らかにお眠りください。
 

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