【真実を伝え、向き合うこと】
『ちょっとピンぼけ』(川添浩史・井上清一訳/文春文庫〈原翻訳はダヴィッド社〉)
《ロバート・キャパ》ハンガリー生まれで、のちにアメリカの永住権を取得。第二次世界大戦時にノルマンディ上陸に帯同。ドイツ軍に背を向けて、上陸してくる戦士を斜め正面から撮影した作品で有名に。マグナム・フォトの創始者であるとともに生涯をコンバットカメラマンとして捧げる。1954年、第一次インドシナ戦争中の北ベトナムで地雷に触れて死亡。愛機はライカM1。
『ライカでグッド・バイ』(青木冨貴子著/ちくま文庫)
《沢田教一》ロバート・キャパやアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真に触発されてカメラマンに。信濃毎日新聞など新聞社8社が週2回写真を送信することを条件に集めた活動資金でベトナムへ。メコン川を渡る母子の写真『安全への逃避』でピュリッツァー賞など複数の写真賞を受賞。その後も『泥まみれの死』や『敵を連れて』などの写真を全世界に向けて発表した。コンバットカメラマンとして8年目の1970年、カンボジアのプノンペン近くでクメール・ルージュの手によって殺害される。勲六等単光旭日章従五位。愛機はライカM2、M3、M4。
『地雷を踏んだらサヨウナラ』(馬淵直城著/講談社文庫)
《一ノ瀬泰造》UPIでの試用期間後、フリーランスのコンバットカメラマンとしてインド・パキスタン戦争の戦地になっていたカンボジアに入国。カンボジア内戦時に『安全へのダイブ』などを撮影。その後、クメール・ルージュの支配下になっていたアンコールワット遺跡への単独一番乗りを目指していた1973年、「旨く撮れたら、東京まで持って行きます。もし、うまく地雷を踏んだら“サヨウナラ”!」との手紙を残して消息を絶ち、9年後に戦死が確認された。愛機はニコンF。
《ユージン・スミス》第二次世界大戦直後のフランスで手をつないだ小さな子どもたちが森の中から出ていくところを撮影した『楽園への歩み』や、スペイン戦争での『スペインの村』でフォトエッセイストの地位を確立。その後日本で結婚し、水俣病を取材した『ミナマタ』で水俣で起こっている真の姿を世に問うた。1978年、脳溢血のリハビリ中、アリゾナ州ツーソンで死亡。
《安田純平》信濃毎日新聞社を退社後、フリーランスのコンバットカメラマンに。イラクの日本人人質事件の取材でイラク・ファルージャで活動するが武装勢力に拘束される。解放後、日本政府が準備した飛行機やホテルを使い脱出。その時、外務省が使った経費の約500ドルは氏に返還要求され返還。その後、イラクでも拘束されるが解放される。日本政府との確執が深まり、深い溝が出来てしまった2015年、シリアのイドリブ県に密入国後ヌスラ戦線により拘束される。3年間の拘束後2018年10月帰国。2004年には「常に『死』という自己責任を負う」というコメントを発表。2018年解放後の記者会見では、謝罪するとともに自己責任で行ったまでのこと、拘束されたのは自業自得だと語ったが、外国人記者との会見では集まった外国人記者からは謝る必要はないとコメントされる。「諦めたら試合終了」という『スラムダンク』に出てくるセリフが独り歩き。
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彼ら、コンバットカメラマンが写真や映像で伝えた戦争の真実がどれだけ世界を動かしたのか、平和な世界だけを見ていればいいのか、命を掛けて真実を伝えることにどれだけの価値があるのか。我々は「真実と向き合う」ことの大切さを真剣に考え直さなければいけないのではないでしょうか。
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