【もう一度会いたい】
僕はこれまで何人の人と出会い、語り、そして別れてきたのだろう。きっと何万何十万人という途方もない人たちと出会ったはずなのに、多くの人たちとの別れを経験してきた。
そんな何十万人の人たちの中には、忘れることの出来ない、特に大切な人々もいる。
亡くなった人もいる。涙の中で別れた人もいる。時代が変化していく中で、その時はそうとは思わないまま別れてしまった人もいる。
思いもよらない時にふと、そんな人たちのことを想い出すことがある。今、彼らはどうしているだろう。
幸せになっているだろうか。人生という長い道程を元気いっぱい走り続けているだろうか。僕には見えないけれど、天国からずっと僕のことを見てくれているのだろうか。
いろいろな想いが交錯して、自分だけが覚えている懐かしいひと時のことを想い出すこともある。
【写真より記憶】
僕は子供の頃から写真を撮るのが大好きだった。しかし、撮るものと言えばメッセージ性を感じるものばかりで、家族の写真はほとんど撮らなかった。それが影響していたのだろうか。すぐそばにいる大切な人を撮ることは極端に少なかった。撮られることも拒否することが多かった。いつも言う言い訳は「今ここに一緒にいることが大切。いつまでも一緒にいるのだから」ということだった。
ところが、その頃出会った人たちのことは記憶の中で鮮明に描写出来るし、時には彼らの方から語り掛けてくるような錯覚におちいる時もある。思い出そうとすれば、出会いから別れまでを鮮明に辿ることも出来るような気がする。
そんなぼくだからだろうか。「あの人の写真がない」と思ったことはない。確かに写真があれば、その写真に向かって語りかけることも出来るだろうし、一緒に現実を見ることも出来るだろう。しかし、僕の横にその人はいない。結局は自分の一人語りでしかないのだ。
【想い出という引き出しを開ける時】
街を歩いていて、偶然、懐かしい人に出会うことがある。そんな時、僕はいつも「引き出しが開いた」と思ってしまう。たとえそれが、すれ違っただけの時でも一瞬にして時間は最後の想い出の時に戻っていく。そこに「空白の時間」はない。言ってみれば、時空がゆがみ、過去と現在が隣り合わせになるのだ。
そんな時、僕はとても幸せな気持ちになる。
こんな時を大切にしたいと思いつつも「もう会えない」と「また会える」という意識がせめぎ合って、結局は時の流れに従うことになる。
偶然再会した人と長い時間を過ごすようになることもある。もちろん、その反対にすぐに「引き出し」の中にしまい込むこともある。
【今、引き出しが開きそうな予感】
何故か判らない。
しかし今、誰か本当に大切に想っていた人と再開しそうな気がするのだ。
これまで、心の中で一人語りを繰り返してきたから出会えそうな気がするのだろうか。それとも、ただの妄想だろうか。
出来ることなら「正夢」であってほしい。それが誰であっても、きっととても大切に想っていた人に違いないと思うのだ。
今日の僕は哲学的なのか、それとも、スピリチュアルな意識が強いのだろうか。
どうも、いつもと違う日曜日になった。
[217/1000]