∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

≡≡ 大人の自覚 ≡≡

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遠い記憶を引っ張り出してみると
明らかに当時の自分には
“大人という意識はなかった”

 1月10日成人の日。育った頃の感覚が染み込んでいるせいか、今日が成人の日だと言われても、単に3連休を増やすための移動休日としか思えず、まったくピンと来ない。

 奈良時代から続く「小正月前後に行うことが多かった12~16歳の男子の元服や公家の女子の裳着」を起源とする節目の年中行事だけに、この日は休日ではなく春分などと同様に祝日として残してもよかったのでは、とグチのひとつも言いたくなってしまう。たとえ支配階級の行事だったからとか、宗教観が強すぎるから固定化するのは問題が残るとしてもだ。

 それはともかく。

 毎年、成人式のニュースを聞くと、数十年前に経験した自分自身の成人式のことを思い出してしまう。
 私は成人式というものに参加していない。というのも出身地の神戸から東京に住民票を移していなかったため、何がどうなのか分からないまま過ぎてしまったのだ。

 そんなことよりも重大な事実がある。

 当時の私には「成人=大人」という自覚が薄かったのだ。20歳の誕生日が来ても、どこにでもいる学生で「大人の自覚を持って」なんて殊勝なことを意識したことなどまったくなかった。せいぜい、アルバイト先で与えられた仕事には責任を持とうとか、選挙にはとりあえず行っておこう程度が関の山だったと記憶している。
 成人式を済ませたから大人だなどという大それた意識などなく、思いつくまま勝手気ままに自由に過ごしていたわけだ。

 もし、当時の私に「成人式を終えて大人になった感想は」というような質問が来たら、きっと「大人って何ですか」とか「式が終わったからと言って立場や意識が変わるとは思いません。何年か経てば意識も変わるんじゃないですか」と冷ややかに答えていただろう。それとも「式に出ていないので分かりません」と突き放したように答えていたかもしれない。

 成人したかどうかは制度の問題でしかない。20歳でも18歳でも自意識が育っているかどうかだけが判断基準になるのではないだろうか。それよりも重要なのは、義務と責任を果たしつつ、自分らしく生きられるかどうかではないだろうか。
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[season12/0110/25:00]
小寒』‥寒の入り。寒中見舞い。寒気に耐えながら春を待ち望む
photograph:suwa-jinja, nishi-nippori, arakawa-ku
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