∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

≡≡ 方針一転異議なし ≡≡

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危機を乗り切るために
既定路線を撤回した
臨機応変の対応

 昨日までのまん延防止措置が分科会メンバーからの強いアドバイスによって方針が一転して緊急事態宣言発出に。今夜のニュースは政府のこの方針転換に集中していた。
 だが、その中身は“なぜ”を追求しないお約束のものばかり。インタビューも反対のための反対に徹する野党の「政権として失格」という意見や、我関せずの立ち位置を守る政権側の政治家は「ワクチンが遅い」か「分科会の反乱」という意見。これから自分が置かれることになる立場を忘れている市民からは「戸惑い」「後手後手」と発出がまるで対岸の火事のように当たり障りのない意見というような表面的なものがほとんどだった。
 それに対して、これまで政府の指針には反対することのなかった分科会メンバーがなぜ強く反対したのか、その根拠はどこにあるのかという核心に迫るような取材はごくわずか。政府があらかじめ分科会からの反対を想定していたのかどうかに至っては秒単位の報道でしかなかった。

☆☆☆☆☆☆☆

 強い制限と引き換えに、高い効果が期待できる緊急事態宣言に方針を一転させることがそんなにいけないことなんだろうか。
 人さまから言われたかどうかを問わず、定石どおりに進めようとしていた方針が的を得たものでないと判断した時でも頑なに既定路線を守ることが重要なんだろうか。

 私は、今日の方針転換を見ていて、日本が敗戦した本質を研究した『失敗の本質―日本軍の組織論的研究(中公文庫刊)』という本を思い出した。
 この論文では敗戦に至る転換点を「ミッドウェイ海戦」と規定し、その理由を、正しく状況判断を下した若手参謀の提案を受け入れず、上級参謀が決定した手前勝手な作戦どおりに展開したことと、上意を受け入れるのが軍人の勤めと捉えていた現場にあったと結論づけている。

 この失敗の本質を応用し裏返して考えた時、今回の方針転換は、政府と分科会のパワーバランスが変化することさえ臆することなく受け入れた臨機応変な即対応と言えなくもない。
 大袈裟に言えば、これまでの総理の決断のなかでもっとも大きな意味を持つものと言っていいかもしれない。

 政府に課された課題の本質はコロナ禍を収束させることで、そのためには、自らの考えとは違っても、専門家や現場の意見を取り入れたほうが理にかなっている。
 今日の一転騒ぎを機に政府の立ち位置が変わってくれるといいのだが。

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立夏の候』‥夏の始まりは新緑と薫風から
[0514 - 3781]
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≡≡ 人間なんてこんなもの ≡≡

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コロナは人の本性をあらわにする

 ヒトはタテマエと本音を使い分けながら生きる動物である。だが同時に理性の力で自分の欲求を抑えることの出来る動物でもある。

 どうもコロナ禍はヒトから理性を奪い取る病でもあるようだ。

 ワクチン接種が本格化し始めた途端に自分の地位を利用した“抜け駆け接種”。入院治療が難しいことを知りながらその地位を利用して裏口入院した例。いつもの発言とは裏腹に多くの人が集まる会合を主催した例。わざわざ大人数のイベントに参加した例。夜陰に紛れながら飲酒という自由に身を任す例。

 理性はヒトが自分を律するために備わっている本性のひとつである。知性でもなければ感情でも、人望でも、剛力でもない。
 日々の生活のなかでは目立つことのないもので、いわば心の心柱になっているものといってもいいだろう。
 しかしこの理性という本性は、雑念や欲が強くなれば強くなるほど失われていくという厄介な特徴ももっている。

 なんとかしてコロナに感染したくない、罹ったらまともに医療サービスを受けたいと思う人が続出するのも致し方ないのかもしれない。もちろん地位を守りたいとか、収入を維持したいということだってあって当たり前だろう。

 だが多くの場合、理性を失ったヒトは、みっともなく貧相で悲しい人物に成り下がってしまうものだ。
 特に周囲が同じような悩みに苦しんでいる時に抜け駆けしようとした場合は、たった一回理性を失っただけで蔑まされる対象に成り果てしまうものだ。

 コロナ禍が続く限り、理性を失うヒトは続出し続けるだろう。どこかに理性を保つクスリはないものかと探したくなってしまう。それとも人間なんてこんなものと達観するべきなのだろうか。

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立夏の候』‥夏の始まりは新緑と薫風から
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≡≡ 今日から延長 ≡≡

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“緊急事態”の実感なし
あるのは
諦めと批判、疑心暗鬼
そして覚悟だけ

 今日から東京都や大阪府に出ていた第4波の緊急事態宣言が延長された。また、愛知県や福岡県には新たに宣言が発出された。

 緊急事態宣言が発出されること自体がおおごとなのに、延長ともなれば緊張感は最大と感じていた昨年と比べると、今回の延長には感染拡大への諦めと、対策の曖昧さへの批判、対策への疑心暗鬼、そして自分の身は自分で守らねばという覚悟くらいしか浮かんでこない。なによりも、施政者を信じようとする意識が薄らいできている。
 こんな否定的な思いしか浮かんでこない根底には、続けざまに宣言や措置が出されてきたために制約のある生活が日常的になったということがあると感じている。いわば“これが日本だ”と達観してしまったと言ってもいい。

 このままではいくら延長しても効果は限定的なもので終わるのではないだろうか。
 そろそろ“強い拘束力を伴った対策”が取れるような法律や条例が必要な仕切り直しの時が来たような気がしている。そんな強い方針を自分の責任として提案できる施政者がいるかどうかは別問題だが。

 出された対策を個々人が個々の基準で解釈できる時代を終わらせる。

 いまさらだが、日本のコロナ対策を有効なものにするには、こんな厳しい決断の下せる施政者が必要なのではないだろうか。

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立夏の候』‥夏の始まりは新緑と薫風から
[0512 - 3779]
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≡≡ 静かなりし上野の森 ≡≡

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すったもんだの末の
全施設休館がもたらす
ポリティカルバランスの変化

 東京文化会館上野の森美術館国立西洋美術館国立科学博物館東京国立博物館及び黒田記念館・東京都美術館台東区立旧東京音楽学校奏楽堂・東京藝術大学大学美術館及び正木記念館。そして国立国会図書館 国際子ども図書館
 JR上野駅公園口を出て東京都恩賜上野動物公園方向に歩くと音楽ホールが2館、美術館が5館、博物館が2館と芸術関連施設が合計9館と歴史的建造物の図書館が1館点在している。

 動物園も含めて“庭のようなもの”と感じている私は、緊急事態宣言の延長が決まったあと、首をひねるような措置があることに気がついた。

 国立の施設は開館するのに都立の施設は休館? 開休館の判断基準は?

 小さな山の上に文字通り芸術関連施設が立ち並んでいる上野で、国と都の意識の差がここまで如実に出るなんてと呆れ返ってしまったのだ。


 ところが事態は急転。突然ともいえる都の休館要請を国が受け入れ、結果的に上野の芸術関連施設は全館休館することになった。


 今の御時世、無理をしてでも美術館や博物館に行こうとする人は少ない。つまり全施設が休館しても大きな混乱は出ないわけである。ちなみに私は「静かになっていいワイ」などと呑気に捉えている

 しかし、今回の国と都のやり取りを政治的に捉えてみると大きな意味が隠されているように思えてきた。
 今回は小池さんの優勢勝ちで決着がついたが、これが度々続くと今以上にポリティカルバランスに歪みが生じるのは容易に想像がつく。
 どんな施策を打ち出しても実践するのは現場任せと中途半端で腰が引けている国と“小池百合子ちゃぶ台返し”。国だってこの図式をそのままにはしていないだろう。
 国も都も「目指すところは同じ。これからも連携を強めて」とコメントしているが、お互い本心ではどう感じているだろう。

 オリンピックを開催するかどうかを決定する時が見ものになってきた。

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立夏の候』‥夏の始まりは新緑と薫風から
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≡≡ 高齢者向け接種始まる ≡≡

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加熱しているのは誰だ
今日始まったのは接種の予約では

 テレビも新聞もすべてのメディアで「ゴールデンウィーク明けの今日、全国で高齢者向けのコロナワクチン接種が始まったが、混乱している」と報じている。

 いったいどこで接種が始まったのだろう。今日始まったのは全国的な接種予約で、接種そのものではないと思っていたのだが、メディアの語り口を見聞きしていると、全国で接種そのものが始まったような印象を抱いてしまう。

 ひょっとすると、確実にワクチンが入手できると確信してゴールデンウィーク前から予約を進めていた自治体では接種が始まっているのだろうか。早くても先週後半からではなかっただろうか。
 それとも、優先的に高齢者施設に入所している人たちに接種しようよ準備していた自治体で計画的な接種が開始されたということなのだろうか。

 特に「接種始まる」と切り出したのはいいが、映像では「予約が取れなくて混乱している」と伝えているテレビの報道には「?」と「?」と「?」と「!」しか感じない。
 しかも、予約が混乱しているという話題の次はワクチン接種がいつ終わるのかという話題である。それも日付と数字が中心で、生の声を反映しているのはせいぜい行政の担当者に電話取材したコメント程度である。

 あえて古典を紐解いて“小言幸兵衛”になり切って言わせてもらおう。

 煽り過ぎとか大袈裟過ぎとまでは言わないし、針小棒大とも言わないが、明らかに膨らませ過ぎ。報道のエンタメ化ここにあり、である。……マッ、これ以上は言わぬが花だろう。

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立夏の候』‥夏の始まりは新緑と薫風から
[0510 - 3777]
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≡≡ 一喜一憂しているわけではないが…≡≡

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現状では評価も出来ない
まずは数字を下げないと

 東京都1032人。大阪府874人。北海道506人。入院待機、施設内療養、ホテル及び自宅療養など治療待ちの罹患者多数。

 第4波のコロナ急拡大に対応するための緊急事態宣言が出されたのが4月26日。あれから2週間経つが、いまだに数字は悪化の一途を辿っている。なかでも大阪府は医療体制が完全に崩壊、兵庫県も事実上の医療崩壊に追い込まれている。

 これまで1年以上コロナ禍の状況を報道や行政の特別サイトで見聞きしてきたが、ここにきて「毎日数字を追いかけても意味がないな」と思い始めている。
 毎日の数字を知って一喜一憂してきたわけではないが、それでも何かしらの拠り所になっていたものが、いまでは「とにかく下げないと」としか思えなくなっているわけだ。

 今回の緊急事態宣言が出されて2週間以上ということは、そろそろ宣言の効果が数字に現れてくる頃である。
 理論上は月曜日くらいから数字が下がり始めておかしくないはずだが「このまま上がり続けるのではないか」という不安のほうが強くなっている。

 緊急事態宣言自体に効果がなかったとは言わないが、多くの人がコロナ禍に慣れ、数字に鈍感になってしまったことで、効果は限定的なものになるのではないかと思ってしまうのだ。
 さあ、どう数字が推移していくか。月曜日からは発表される数字は“怖いもの見たさ”で見聞きすることになりそうだ。

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立夏の候』‥夏の始まりは新緑と薫風から
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≡≡ 「地政学的問題」という問題 ≡≡

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先週に引き続きテレビから……
「地理の授業がなくなって49年」

 先週は「軍艦島」の話題に昔の自分を思い出した。そして今週は「池上彰のニュースそうだったのか!!で展開された『地理の授業が49年間行われていなかった』というキーワードにびっくりしてしまった。土曜日の夜はテレビ朝日の番組に取り憑かれているのだろうか。

☆☆☆☆☆☆☆

「49年間行われなかった地理の授業が来年から再開」

 知らなかった! あって当たり前だと思っていたのになくなっていたとは。

 好きな教科のベスト3(5かな)に入るほど私は地理が好きだった。特に、この道はどこに通じているのかということから、とある国の人々の生活はというよなことまで、その街が果たしている役割や他の街との関係性などのストーリーを想像するのが大好きだった。
 偉そうに言えば、地政学文化人類学などに通じるものを考えるのが好きだったのだ。その習癖は数十年経ったいまでも変わっていない。
 ちなみに、古地図を眺めながら、当時の社会構造や産業分布などを想像したり、現実の街を歩きながらその街の過去に想いを寄せることも大好きである。ただし、“散歩の極意”につながる、どこでも簡単に迷子になれるという特技付きだが。

 で、そんな私が今夜疑問に思ったのは、地理学が表舞台から身を引いて49年も経つのに、どうして若い人は「地政学的的問題……」と言えるのだろうかということだった。
 少なくとも、その国や街がどこにあるのかくらい知らないと地政学なんて語れないはずだ。場所も知らない国名や地名だけを頼りにしていては、ポリティカルバランスも何もあったものではない。まさに的はずれな考察しか生まれないと思うのだが、違うのだろうか。
 それとも、やたらとカタカナ語を連発して、知っている風を演出するワザのひとつなのだろうか。

 マッ、いいだろう。地理の授業が復活すれば地政学の位置づけも変わるはず。期待していよう。

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立夏の候』‥夏の始まりは新緑と薫風から
[0508 - 3775]
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≡≡ 要請に関しての素朴な疑問 ≡≡

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緊急事態宣言中の
追加要請は許されていないのか

 延長される緊急事態宣言の内容が少しづつ明らかになってきた。国として新たに追加する要請もあれば、解除する要請もある。自治体によって事情が違うことを考えれば、国が決定するグランドデザインと自治体別のディテールという構造は肯ける。

 今回新たに加えられた要請のなかに「酒類の店内持込みを許している場合は休業要請」と「路上・公園等における集団での飲酒」いうものがある。これまでの宣言期間中に多く見られた現象への制限である。

 この制限の追加自体は妥当な措置だと思っている。だが、なぜこの時点で追加することになったのだろう。もっと早くから追加することは出来なかったのだろうか。

 法律や条例のように、一旦決めてしまったら改定には議会による議決が必要というものではないのだから、期間中であっても“お願い”ではなく“要請”として追加しても差し支えないと思うのだが、掟破りなんだろうか。
 “抜け道塞ぎ”のように捉えられて大きな反発も予想されるが、目標達成を阻害する大きな要因は即制限するという厳しい態度を取ることで国や自治体の覚悟も示すことが出来るし、なにより大きな世論形成になるはずだ。

 一刻も早くコロナ禍を収束させるためには手段を選ばない。国と自治体の覚悟と緊迫度を示すためには、こんな姿勢も必要ではないだろうか。

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立夏の候』‥夏の始まりは新緑と薫風から
[0507 - 3774]
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≡≡ 【速報】5月31日まで延長へ ≡≡

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段取り通りとしか思えないが、
延長時には
平易な言葉で実情を説明するべき

 東京都・大阪府兵庫県京都府に出されていた緊急事態宣言が5月31日まで延長されることになりそうだ。愛知県と福岡県への緊急事態宣言発出と北海道・岐阜県三重県にはまん延防止措置が追加されるという。

 もともと期間が短すぎるとか、指定される自治体に異議ありとするような意見があったなかで発出された宣言だったが、私は追加される2以外は政府が当初から描いていた思惑どおりの延長だったのではと思っている。


 ゴールデンウィークは休暇を取る人も多く、人流も抑えられる時期。この時期ならある程度制御可能になるのではないか。飲食店以外にも制限を設けて様子を見てみよう。延長時なれば制限の見直しも考えてみよう。
 政府はこんな腹案を持っていたのではないだろうか。

 ところが発出してみると、路上飲みの増加、オープンエアの観光地の混雑、壊滅的な医療体制など想定外の事態になってしまった。なにより、想定以上に国民の間に緊張感も共感が生まれず、批判ばかりが目立つ事態に追い込められているというのが実情なのではないだろうか。


 延長時には、大規模商業施設への休業要請やイベントなどの開催制限は緩和されるという。つまり、主な制限で残るのは飲食店への制限要請だけになるわけだ。

 しかし、この程度の微調整でいいのだろうか。
 政府は感染者数の大幅な減少を短期間で実現させるために残されているのは、強権発動出来る立法か、強力で迅速な財政出動しかない。
 仕事がない、お金がないということがどれだけ辛いことなのかを肌感覚で分かっていない人たちにとっては、財政出動という裏付けを付加したうえでの成果目標を示すことがもっとも効果的だと思うのだが、どうだろう。
 まず最初にやるべきは「平易な言葉と迅速な財政出動で実情と目標を詳しく説明し、理解と共感を得る」ことではないだろうか。

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立夏の候』‥夏の始まりは新緑と薫風から
[0506 - 3773]
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≡≡ 立夏の候 ≡≡

▼『立夏の候』‥夏の始まりは新緑と薫風から

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今年の夏は“時代の転換点”に

 『立夏の候』。木々の若葉の間を爽やかな風が吹き抜けるなかに夏の気配を感じ始める頃。江戸時代にまとめられた『暦便覧』では「夏の立つがゆへ也」と記されている。暦の上では『立秋』までの約2カ月間が夏とされる。

 暦の上とはいえ、夏が始まった。

 夏が来るということだけで、何かいいことが起こるのではと想像してしまうのは私だけだろうか。

 先行きがまったく見えなくなっているコロナ禍も、夏になればワクチン接種が軌道に乗って収束への道を模索できるようになっている…はず。開催が危うくなっている東京2020も…それなりに答えが出ているだろう。
 今年の夏はそんな“時代の転換点”になりそうと考えるのは、あまりにも呑気すぎることだろうか。

 ところで今日5月5日は『端午の節句』。古代中国では菖蒲やよもぎで邪気祓いを、平安時代以降の日本では田植え前に菖蒲やよもぎで穢れを祓う日とされている。
 邪気を祓って夏を迎えるとは、なんとも縁起のいい取り合わせである。せっかくなので本当にそうなってくれればいいのだが。

[0505 - 3772]

≡≡ 最初から最後まで大混乱 ≡≡

▼『穀雨』‥光り輝き、雨が芽吹きのきっかけに

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オリンピックよ、どこへ行く

 誘致への裏工作にはじまり、シンボルマーク問題、会場選び、経費問題、新国立競技場建設、コロナ禍による延期問題、マラソン会場の変更……と今回のオリンピック“東京2020”は混乱とともに歩んできた。
 そんなオリンピックが開催約80日前になってまた波紋を投げかけている。看護師500人と、ボランティアのスポーツドクター100人募集である。
 ボランティアガイド同様に医療関係者が何人必要で、働き方はどうなるのかということは決まっていて当然。1年前とは状況が違っているとは言っても、少なくとも大枠は決まっていたはずだ。

 JOCはもともと開催ギリギリになってから人集めをしようとしていたのだろうか。それとも、コロナ禍が収まるまでは募集を静観していたのだろうか。いや、天下のJOCがそんな殊勝なことを考えていたとは思えない。

 「無理が通れば道理が引っ込む」ということわざがある。「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」という小林一茶の句もある。明治維新の頃には「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉が生まれている。

 今回のオリンピックは最初から最後まで好意的に受け取れる印象が薄いままで進んできたような気がしている。ある意味、疫病神に取り憑かれた大会と言ってもいいだろう。

 ほとんどの人が日本の高度経済成長をシンボライズするものと信じていた前回の東京オリンピックと違い、今回の東京2020ではわがまま放題の無茶は通らないと分かっていたはずなのに、JOCを始めとしたオリンピック関係者は分かっていたはずだが、実際に動き始めてみると同じような哲学で進めようとしているようにしか思えない。
 大袈裟な言い方だが、そもそものグランドデザインに問題があったのではないかとまで思ってしまう。

 コロナ禍で開催そのものさえ危うくなっているというのに、なぜ次から次へと無理難題を投げかけてくるのか、落ち着いた時点で聞いてみたいものだ。

[0504 - 3771]

≡≡ 正直者がバカを見る ≡≡

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▲『穀雨』‥光り輝き、雨が芽吹きのきっかけに

私はそれでけっこう
生兵法は大怪我のもと

・毎日のように過去最大の感染者数がカウントされている。
・毎日のように変異株の強さや後遺症の恐ろしさが報道されている。
・まん延防止措置を要請しようとする自治体が増えてきた。

・外だから。マスクをしているから。
・こんなに人がいるなんて思わなかった。・我慢できなくて。
・用を済ませたらすぐ帰るから。
・私は罹らないから。若いと罹っても軽いから。

 ニュースを見る限り、コロナ禍の危機的な状況とは裏腹に、人々の気持ちはどんどん感染予防の“シバリ”から離れていっているようだ。
 今の状況をみると、今回の緊急事態宣言は延長されることになるかもしれない。それも法に抵触しないギリギリの制限付きで。

 1年以上コロナ禍と付き合って分かったのは、一般論でいう「危機的な状況に慣れると人はそれが当たり前だと考えるようになる」ということかもしれない。そんな風潮が蔓延すると、冷静に捉えれば“逃げ道”なのに、これくらいなら大丈夫と自己判断を下すようになり、それが強かな生き方と思うようになる。
 逆に、罹ると厄介だからできるだけ仙人のような生活を送る人を不器用な人と決めつけるようになる。


 『生兵法は大怪我のもと』という言葉がある。中途半端な知識や技術に頼ると、かえって大失敗をするということのたとえである。
 コロナ禍がこれまでの経験値では判断できない状況になろうとしている今、もっとも気にかけておきたい言葉ではないかと思うようになってきている。
 今こそ、もう一度初心に戻って“正しく怖がる生き方”を実践する時ではないだろうか。

 私は、あえて「正直者がバカを見る」暮らし方に戻ろうと思っている。

[0503 - 3770]

≡≡ ステイホームど真ん中 ≡≡

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▲『穀雨』‥光り輝き、雨が芽吹きのきっかけに

1年前に感じていた恐怖心はどこへ行った

 ゴールデンウィーク真っ只中の5月2日。ひっそりと過ごしてコロナ禍に巻き込まれまいとする人と、きちんと対策をしているからこれくらい大丈夫という人と、行動制限はもう聞き飽きたという人と。これほど人の行動に違いが出たことはなかった。
 これくらいは大丈夫と自己判断を下す人が増加して、昨年同時期のようにコロナと言えども、政府や自治体の指示を鵜呑みにすることなく自己判断で大丈夫という風潮が広がっているからだろう、観光地に脱出する人が増えるのは当然といえば当然だろう。
 しかし、そんな風潮が独り歩きしている中で満足な治療を受けることが出来ずに苦しみに耐え続けている人や亡くなってしまう人も増えている。

 せっかくのゴールデンウィークが台無しだと決めつけるのも理解できる。
 施策の不備に振り回されるのは御免こうむるという姿勢も理解できる。
 政府と自治体と研究機関と医師会と主張激しいコメンテーターの立ち位置がバラバラなので自分で判断するというのも理解できる。
 感染者が増え続けていると言っても不用心な一部の人だけじゃないか、自分には関係ないと思い込む人がいるのも理解できる。

 実行力に欠ける施策、充足するまであと一歩のワクチン、事実上崩壊している医療資源。これだけでもコロナ禍が危機的な状況にあることは確実だというのに、その現実から目を背けようとする人が増えているとは。

 今こそ、慣れと自己判断を控え、1年前に感じていた恐怖心を思い出し、行動制限を実行する時ではないだろうか。

[0502 - 3769]

≡≡ 軍艦島の今を見て ≡≡

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▲『穀雨』‥光り輝き、雨が芽吹きのきっかけに

記憶の片隅に仕舞い込んでいた
古き思い出が蘇った日

 今日の夕方、テレビ朝日の『サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』で「軍艦島の非公開エリアに潜入する」というロケを見ていて、図らずも若き日の自分を思い出した。

☆☆☆☆☆☆☆

 本題に入る前に軍艦島についてと私の関わり方について話しておこう。

端島炭鉱】
 明治16年(1883年)長崎沖の小さな島、端島で石炭を掘削し始めた。その後富国強兵策のもと、端島の石炭生産量も増え、昭和初期には島の大半を炭鉱に、残った場所を従業員とその家族が日常生活を営む“炭鉱の島”が出来上がった。
 島の遠景が軍艦のように見えることから軍艦島と言われるようになったのは昭和10年代のことだと言われている。
 その後昭和49年(1974年)に閉山して全島民が去り、それ以来、平成27年(2015年)に世界文化遺産として登録されるまでは無許可で魚釣りに訪れる少数の人以外人の気配がしない島だった。
 あまり語られることはないが、端島には炭鉱の島以外に日本の高層ビル建設の実験場という側面も併せ持っている。“鉄筋”の技術がなかった頃には“木筋”で高層ビルを作り、閉山当時も現役の住宅(6~7階建て)として使用されていた。また、大正5年(1916年)には鉄筋建築(ラーメン構造)の実証実験として日本で最初の鉄筋コンクリート作りの高層ビルも建てられた。

【卒業制作】
 大学で写真を学んでいた私は3年生の時に田中先生から「東京電機大学のチームが夏休みに軍艦島で建築史のフィールドサーベイをするのだが、そこに同行して撮影してもいいという連絡があった。行ってみないか」というお誘いを受けた。昭和52年(1977年)のことである
 写真家の奈良原一高氏が軍艦島に居を構えながら撮影した『王国』に感銘を受けていた私は悩むことなくその場で参加を申し出た。
 お盆の前後10日間ほどの予定。宿泊は端島同様の炭鉱島だった高島の公民館。決まった時間に漁船で送迎してもらい、入島時と昼休憩、離島時には点呼を行う。食事は交代で作る。靴は靴底とつま先にスチール板が入った安全靴。出発前に決まっていたのはこの程度だったと記憶している。ちなみに撮影は35ミリカメラで行なった。
 年が変わり4年生になった時、再度先生から「今年も同行できるようになったがどうする」という話があり、即座に「行きます。卒業制作にします。今年はブローニーフィルムコダック・プラスX・120)を使って2眼レフで撮ります」と応え、前年同様のレギュレーションで参加することになった。その時に撮った写真の中から30枚を選び写真集を作り、卒業制作にした。
 3年生の時は「閉山後3年経った人の気配が消えた島で人口物を撮る」つもりだったが、撮影を続けるうちに人の“人の残り香”や“生きた証”が残っていることに気づき、途中から被写体を変えていた私にとって二度目の撮影チャンスは願ってもないこと。建築写真というよりも“人が写っていない生活風景”になったのではと今でも思っている。

☆☆☆☆☆☆☆

 私にとって軍艦島は青春の1ページを飾った忘れがたき島である。

 しかし今、手元にはその時の写真集はない。ネガもない。大学が保存してくれていれば原本が残っているかもしれないが、少なくとも自分用の控えにしていたものはない。人生の紆余曲折のなかですべて捨ててしまったのだ。

 まさに「人は何かを捨てながら齢を重ね、残るのは記憶ばかり」の典型例である。あの時から40数年、記憶とともに記録も残しておくべきだったと気づいた。

 私は常に前向きであれと自分の人生の軌跡を表に出すことに抵抗感を感じ、記憶自体を封印しようとしてきた。今日のように“記憶の引き出しを開けるカギ”と出会った時には突然思い出がとめどなく湧き出してくるものということさえ忘れていた。

 ひょっとすると今夜のテレビ番組は「思い出に酔ってはいけないが、時には湧き出す記憶に身を委ねるのもいいものだ」と私に気づかせるものだったのかもしれない。

[0501 - 3768]

≡≡ 7月中に高齢者への接種完了へ ≡≡

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▲『穀雨』‥光り輝き、雨が芽吹きのきっかけに

国は「それ行け!」
自治体は「エッ、そんなに早く」

 4月30日。菅総理は7月中に高齢者向けのワクチン接種を完了させるようにと大号令を出した。
 6月中にファイザー製のワクチンが大量に輸入されることに加えて、今日初輸入されたモデルナ製ワクチンも厚労省によって承認される予定と状況が好転することが確実になったことによるものであることは間違いない。

 総理をはじめとしてワクチン接種のカギを握る関係者にとっては待ちに待った発表である。まさに「それ行け!」状態だったのではないだろうか。
 だからこそ、医師と看護師に加えて、特例として歯科医師救急救命士、薬剤師など予てから腹案として持っていた接種人材の拡大プランまで発表したのだろう。

 ところが実際に接種を担う自治体レベルでは「予定が狂う」とか「人材がいない」というような声が出ているという。2カ月以上前から5月以降はワクチン供給量が急増すると発表されていたにも関わらずである。
 うがった見方をすれば、政府の動きを信じていなかったのか、それとも危機的な状況にある時は通常の発想でモノゴトを進めてはいけないという危機管理の法則を理解していないのか。いずれにせよ今回の混乱は、自治体の立ち位置や準備体制にも問題があるのではないだろうか。国の強引さについては熟知しているはずなのに。

 良くも悪くも、ある日突然、病状も国の対応も人々の心情も、何から何まで、未知の経験に直面してしまうのがコロナ禍の特徴である。
 そんな未知数だらけのコロナ禍のなかでやっと出てきた状況好転である。突然の発表に戸惑うことなくコロナ収束に向けた前向きな対応に即刻カジを切ってほしいものだ。

[0430 - 3767]