∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

≡≡ 表示が変わっていませんか ≡≡

そうであれば、ご容赦を

 今、読んでいただいているこのブログで≡≡ ●●● ≡≡で表記しているタイトルのすぐ下、見出しとの間に横長の広告バナーが表示されていないでしょうか。

 実は、昨夜遅く今読んでいただいているこのブログに「はてなブログ」側で広告が表示されるようにレイアウト変更を加えたようなんです。
 そのためスマホタブレットで読んでいただいている方のなかには「ナニコレ?」と違和感を持たれた方がいらっしゃるかもしれません。ちなみに、PCでは表示されないようです。

 サイトからのメッセージを見落としたのか、連絡がないのか定かではありませんが、突然のレイアウト変更で僕自身も驚いています。かといって、イニシアチブを握っているのは運営サイト側です。
 ひょっとするとサイトの有料会員になれば表示されない設定も可能なのかもしれませんが、無料で利用している身としては如何ともし難いのです。

 こういう状況ですので、見出しだけは目立つような工夫をしていこうと考えたほうがよさそうです。もっとも、文章そのものは劇的な変化があるわけでもなく低空飛行のままですが。

 多少読みにくくなったかもしれませんが、なにとぞご容赦のほどを。

[0129 - 3376]

≡≡ 雨です! ≡≡

雪の次は冬の嵐、だとか

 昨夜の天気予報では「都心部でも雪が降り、交通機関などの混乱が予想される」と発信されていました。
 そして、今夜は「暴風・豪雨が吹き荒れる冬の嵐」になるとか。それなのに、明日は一転して春のような天気になるとか。

 いったいどうなっているんでしょう、日本の天気は。

 ありがたいことに昨夜は雨に牡丹雪が交じる程度で終わりましたが、今夜はどうなんでしょう。「またたいしたことはないよ」とタカを括っていると手酷いしっぺ返しを食らうことになるので、今夜も注意しておかないといけないんでしょうね。

 ちなみに、我が家に全員集合している居付き猫軍団は気配を察知しているのか、静かにお気に入りの場所で居眠りを決め込んでいます。
 きっと深夜になると、外に出ることもせずに我が家の中で大運動会をはじめて、何もかもをズタズタにしてくれるんでしょう。フー。

それはさておき。

 雪も辛いけれど嵐も辛い。しかも、寒さはめっぽう苦手。寒いだけで荒れない冬を希望しているんですが、難しそうですね。

[0128 - 3375]

≡≡ 雪です! ≡≡

複雑な心情です

 今夜から明日に掛けて東京でも雪が降るだろうと伝えられています。
 「冬は冬らしいほうが良い」と言ってきたのに、いざとなると勝手なもので、やっと東京にも冬がやってきたなという気持ちと、うんざりするような気持ちが入り混じった複雑な心境になっています。

 いつも関東甲信越イコール都心部と間違えてしまう僕には、例年天気予報が「関東で雪」と言えば東京下町も靴が隠れるほどの積雪になるのではと心配してしまう悪いクセがあります。
 まだ雨も降っていないのに雪に埋もれた下町を想像するなんて大袈裟なと思いつつ、それでも降ったらどうしようと心配してしまう僕。まあ、予断を許さず、天気をナメることなく過ごすように心がけます。
 ちなみに、今のところ我が家の居付き猫たちに雪を警戒している雰囲気はありません。濡れるようならベッドの上で寝てればいいやと考えているのかもしれませんが。

[0127 - 3374]

≡≡ 今のうちに観ておかねば ≡≡

国立近代美術館工芸館が移転する前に

 地下鉄東西線竹橋駅から坂道を約10分ほど歩いた所にある端正なレンガ作りで独特な存在感を醸し出してきた国立近代美術館工芸館。
 重要文化財に指定されている旧近衛師団司令部を活用したこの美術館で僕はどれだけ美の結晶をみせてもらってきたことか判りません。

 そんな、小振りながらも日本の近代工芸を代表する秀逸な作品ばかりを展示してきてくれたこの博物館が石川県金沢市に移転するのが発表されてから数年。とうとう今年3月には閉館します。

 国立近代美術館工芸館が東京で開催する最後の企画展になってしまった『2020 PASSIONS for Crafting Crafts-さらば。』に行ってきました。

 丁寧なうえにフレンドリーな雰囲気で接してくれる受付で入場券を買い、ロッカーにバッグを預けて二階へ。
 染織・漆・金工・陶芸・人形・民芸・モダンアートなどを20の局面から切り取って展示することで「日本の工芸がもっているパッションを感じてもらおう」というのが今回の展示のキーワードですが、キュレーターのそんな想いは見事に結実したようです。

 それにしても、ここ来れるのがあと2カ月とは。金沢市に新設される「近代工芸館」に収蔵品のうち8割近くが移転するので、作品自体はそこに行けば再会できると判ってはいても、距離的なことを考えると、さすがにフラリとは行けそうにありません。
 大所高所に立って、金沢に近代工芸の逸品を集結させる拠点を作るための第一段階と言われれば納得せざるを得ませんが、個人的にはなんとも寂しい限りです。

 近代工芸の美を発信し続けてきた国立近代美術館工芸館が4月に。モダンアートの旗手だった原美術館伊香保への移転が12月。今年は、建物自体が貴重な表現でもあったミュージアムふたつとお別れしなければいけない“節目の年”になりそうです。

[0126 - 3373]

≡≡ 制圧への闘い ≡≡

ウイルスも人心も

 新型コロナウイルスの感染者がたった数日で世界規模に拡大し、中国国内だけでなく世界各国で検疫・隔離などが繰り広げられるようになりました。

 そんななか、中国では武漢を中心にして軍隊が派遣されるようになったとか。医療関係者なら「なるほど」と理解できますが、軍隊が出動するとはさすが中国だとうなずいてしまいました。
 経済活動はもとより日常生活のすべてが停止させられた市民が抱くのは社会不安しかありません。そんな不安や鬱屈が引き起こすのは異常行動。特に“目標が定まらない暴動”は中国共産党率いる中央政府がなによりも恐れるところでしょう。軍隊を派遣してでも制圧すべしと考えたのでしょう。

 まさに「制圧すべきはウイルスと人心」。

 1,000人が収容できる隔離病棟が整った病院を更地からたった10日間ほどで建設する一方で、暴動にも備える。中国政府の筆舌に尽くしがたいような必死さは充分に理解できます。

 同様に、ここまでの措置は絶対的な命令権がなければ出来ないこと。中国以外の国でこんな政策をとれば政府に対して非難が集中されるはずです。

 たとえば、東京で未知のウイルスが発見されて世界的に拡散したと仮定しても、交通網の遮断や暴動鎮圧を予見した機動隊の動員はよほどのことがない限り発令されないでしょう。発令されたとしても、封鎖エリアで活動する人々へのケアが考慮された条件付きのものになるのは確実でしょう。市民に対してなんの保障も与えないまま施策を強行するなんて愚策中の愚策と非難轟々になるのは目に見えています。

 今のところは「ウイルスを制圧するためには戒厳令前夜と取られるような強攻策もやむ無し」と理解しておくしかないのでしょうか。

[0125 - 3372]

≡≡ やっぱりヘビ、ですか ≡≡

複雑な心境

 年末年始に香港へ行った時、滞在中に一度は「ヘビスープ」を食べるのが僕の定番でした。フランスに行くと「ジビエ」や「うさぎ」や「カエル」が食べたくなるのと同じ感覚で、年末年始の香港と言えば、春節の縁起物とか、ひと冬風邪を引かないと言われている「ヘビ」というのが僕のお約束だったんです。
 アッ、念のため言っておきますが過去形ですからね。

 日本では単なるゲテモノでしかないものだけに、身分不相応な高級店でもいいからきちんと料理してくれそうな店を慎重に選んではいましたが、所詮“ヘビ食い”。最初に挑戦した時はおっかなびっくりでした。

 ところが一度食べてみると、これがけっこうイケるんです。

 漢字で書かれたメニューに「蛇」と「羮(かん)」の字があるものを探し、「三種」より「五種」、ホテルのメインダイニングなら「七種」を選ぶ。これが僕の選び方です。

 ヘビ肉をほぐして、たけのこ、しいたけなどの野菜と一緒にトロミのある煮込みスープと言えばいいのでしょうか。レモングラスの爽やかな酸味と香りが食欲をそそってくれます。ちなみに食感は、弾力のある鶏のササミといったところ。ジビエのような“特有の匂い”はありません。あくまでもササミです。

 このスープをスターターにしてメイン料理を楽しみ、最後に水餃子と中国風のおしるこで締めれば中国の人と同じように春節のお祝いをしたような気分になれたわけです。

 ああー、それなのに。ヘビが新型コロナウイルスの重要な感染源だったんですね。

 さすがにコウモリ(きっとフルーツコウモリと言われているものでしょう)やヘビの丸焼きを食べる気にはなりませんが、肉の原型が見えないスープなら問題なしと信じ込んでいたのに残念至極です。なにしろ洋食とは言え、極めて野生に近いですからね。

 マッ、日本で挑戦するならサラダチキンで代用すべしというところですかね。

[0124 - 3371]

≡≡ 武漢封鎖 ≡≡

明日から春節だというのに

 新型コロナウイルスが中国・武漢で蔓延しているのが話題になり始めて10日も経ったでしょうか。とうとう街自体が封鎖される事態になったことはご存知の通りです。
 予断を許さない状況だというのは判りますが、明日からはじまる春節が想像以上に危険な分岐点になるのではと、素人ながら、心配になっています。

 ウイルスの感染拡大を防ぐためにはやむを得ない措置でしょうが、明日から始まる春節で移動を計画していた人たちがはいそうですかと納得できるのでしょうか。なかには「自分は健康だ」と自己診断を下したうえで、一般道経由でほかの都市まで移動して、そこから目的地へ向かおうとする人がいないとも限りません。もちろん、自己診断の健康チェックだけで封鎖以前に脱出した人も多くいるはずです。
 すでに武漢以外の都市に感染が広がっている現状を考慮に入れると、まだまだ感染者が増えるのは確実だと思うのですが。

 武漢と言えば自動車をはじめとして日系企業が多く進出している都市。駐在している皆さんも緊張の極地にいらっしゃるのではないでしょうか。ニュースによると空港が封鎖される直前に脱出された方も多いようですが、中国、日本以外の国の人たちも含めて、今も残っている残留組に対してのケアはどうなっているのか知りたいところです。

 出る人だけではありません。春節で里帰りしようとしていた中国人の人たちが保菌状態で日本に再入国しないとも限りません。潜伏期間が約2週間程度と言われていることを考えると、再入国後数日で発症する人が出ないとも限りません。そのあたりの検疫体制にモレがあると、日本が感染国になるのは確実。中国のここまでの対応から想像すると、厳重過ぎるほどの検疫体制が必要だと思うのですが。

 検疫体制でもうひとつ気になるのが船旅です。特に九州各地に入港する観光船の検疫体制は万全なんでしょうか。今のところ空からの検疫体制は確立されているようですが、海からの侵入に対してはどうなんでしょう。モレはないんでしょうか。

 インフルエンザに加えての新型コロナウイルスの出現。今年の春節は“それどころではない”まま終わってしまいそうです。

[0123 - 3370]

≡≡ たしか今は大寒のはず ≡≡

寒いけれどあったかい冬

 今年の冬はあったかいですねえ。二十四節気大寒ど真ん中だというのに、いまだにピリピリとした寒さを経験していないような気がします。
 まさに暖冬。“冬商売”で稼がねばと思っている方を「真綿で首を締めている」ような感じです。

 寒さがめっぽう苦手な僕ですが、ここまで“らしくない”と、逆に妙な不安感に苛まれてしまいます。
 たとえば、しのぎやすいと思っていたら、急に極寒に様変わりして辺り一面雪景色になるのではないか。はたまた、これが年間気温の「底」になってしまって、夏が昨年以上に異常に暑くなるのではないか。こんな思いを抱くなんて、正直言って初めてかもしれません。

 地球温暖化を憂うなんて大袈裟なことは言いません。
「冬は冬らしく、四季折々の風情のなかで過ごしたい」だけなんです。

 極寒の冬は苦手だけど、あえて言わせてください。「来たれ、冬将軍」と。

[0122 - 3369]

≡≡ この辺りで余韻も封印せねば ≡≡

今日からはお約束の日常に。
まずは“お食餌のまとめ買い”から

 昨日までの数日間、例年通りに阪神淡路大震災のことを書き続けてきましたが、書ききれなかったことも多いけれど、そろそろ日常に戻らねばと痛感しています。

 ということで、今日からはいつもどおりのノンキおやじに戻ります。

 やはり、僕には半径数メートル以内の出来事やちょっとした心情の変化をダラダラと書きなぐるのが似合っているようです。まっ、書きそびれたことは来年書きます。

 で、本日は。居付き猫さま専用の食材買いに走り回りました。キャットフード、チャンク、カニカマ……。我が家のエンゲル係数を危険水域近くまで引き上げている食材のまとめ買いです。

 どうしてこうなったのかいまだに自分でも判っていませんが、“お食餌の準備”が整っただけでちょっとホッとしている自分がいじらしいと言うか、情けないと言うか、おバカと言うか。仕事の遅れはなんとかなるけれど、腹ッペラシの居付き猫には勝てませんからね。

[0121 - 3368]

≡≡ センター街を歩きながら ≡≡

風化させない努力の難しさ

 神戸港を見下ろす山の上で眠る我が父母の墓参りに行った後、三宮センター街に出て神戸流のお好み焼きを腹いっぱい食べる。昨日は身も心も満足できた一日でした。

 満腹のまま、センター街をブラブラしていると『9131-絵がつなぐあの日とそれから』と銘打ったスタンドディスプレーがそこかしこに立っていました。チラッと覗き込んでみると、なんだか難しそうな趣旨説明が書いてありました。
 やけに長い趣旨説明が書かれていましたが、ごっそりと要約すると、10年前にNHKの神戸支局が実施した企画を再度形にした展示のようで、地震直後を思い出して描いた絵と、当時のことを作者から聞き込んだ地震を知らない作家が描いた作品を対比させようという取り組みとか。

 リアルな体験を作品にした展示会はよくありますが、聞き込んだ話をもとにして今の神戸を描き、対比させながら展示するのは意外と珍しい企画。センター街の真ん中に設置されたディスプレーを次々と見せてもらいました。
 で、その印象は。
 趣旨は面白いけれど、追憶をリアルに描いた作品と、現実と遊離したような夢の世界を描いた作品との間に生まれたギャップをどう表現するかという根本的な問題をもっと考えてほしかったというのが正直な感想です。

 伝えたい人と伝えてほしくない人。体験を思い出す人と思い出したくない人。ひと口に“風化させずに伝え続ける”と言っても、反発を招くだけに終わってしまったり、理解されないまま終わってしまったりすることはありがちなことです。

 切実な想いで伝え続ける意志を失ってしまったら後世の人に何も残せません。

 批判もあるし、理解されないところもあるでしょう。自己満足と揶揄されることもあるはずです。しかし、それでも伝え続けなければいけないのです。
 なんらかの形で行動を起こすことで「記録は記憶として残る」のです。昨日見せてもらった作品展も、今は未熟な所があるけれど、やり続けることで充実したものになるのではないでしょうか。

[0120 - 3367]

≡≡ 復興を妨げる心ない悪意 ≡≡

真の障害は邪心にあり

『大したことはないのに大袈裟に言って義援金をせしめようとしているらしい』
 →6,000人以上の方が亡くなり、見渡す限り焼け野原になった地域も多かったというのに、大したことがないとは。ちなみに半壊だった我が実家が受け取ったのは修繕費として市から支給されたのは10万円だけでした。

『援助で駆けつけた業者に無料で片付けをやらせているらしい』
 →無料で配られていたブルーシートを1枚1万円で売りつけたり、屋根瓦の修理を100万円で請け負ったまま、何もしないで雲隠れするような悪徳業者がほとんどでした。町内の掲示板や電信柱に無許可で貼られた広告の下には「瓦礫の撤去は区役所か自衛隊に申し出てください」とか「ブルーシートは無料で配布しています」というような区役所からのお知らせが貼られていました。

「行政は庁舎の復旧を優先してほかの事は自衛隊にすべて任せているらしい」
 →県庁をはじめ役所という役所の修復は、散逸した公文書を整理すること以外、瓦礫のほとんどが片付いてから行われました。罹災証明の件で訪れた兵庫区役所で被害状況の把握や市民サービスの処理などに追われ、一見して、風呂も入らず睡眠も取らず働いていると判る署員がフラフラになりながら働いている姿を目撃した僕は彼らに声を掛けることが出来ず、頭を下げるだけで帰ってきてしまいました。

「略奪、暴行、性暴力。神戸の悪タレはやりたい放題らしい」
 →家が焼け、家族を失った多くの人々が多いなかで、強い精神的ダメージを受けたごく一部の人間以外、誰もが目の前に広がった惨状を復旧させるべく活動し続けていたというのに“知ったかぶり”は……。事実に目を背けて悪意という名の媚薬をまぶした話を創作して自らの優位性を示そうとしたかったのでしょう。

「家がおっちん(座る)してしまいましたと言って全壊したのを喜んでいる」
 →身の回りに起こったことがショッキングであればあるほど笑いの成分を加えてショックを和らげようとする関西人ならではの性格を非難の矛先に向けて、泣き叫んでいないのはおかしいと決めつけたかったのでしょう。

……………

 25年経ってやっと、僕が勤めていた会社内で聞こえたウワサの中で今も覚えている5つのエピソードとその真実を書きました。

 僕はあの地震で本質的な人の心の表と裏を知りました。

 悪意ある捏造がいかに自己優越性を満足させるものなのかを身を持って知り、「他人の不幸は蜜の味」ということわざがいかに的確なものなのかも知りました。

 大災害のあとには「囁かれた途端に大きな声に変貌する」デマやウワサ、捏造などが蔓延するとはよく言われることです。その端的な例がSNSが一般的になってから起こった東日本大震災だったことはご存知の通りです。

 しかし、誰もがこの現実を収束させるノウハウを持っていなかった25年前は、悪意あるウワサもデマも何もかもが言いたい放題の垂れ流し状態だったのです。

 そんな状態をそのままにせずに“否定する報道”にも注力しようと報道陣が動き始めたのが東日本大震災だったのではないでしょうか。
 デマや捏造は許さない。「神戸の失敗は福島で取り戻す」。報道陣はあるべき道を歩み始めたようですが、市井の人々にどれだけの意識改革が起こっているのか…、疑問が残るところです。

 復旧・復興に向けた整備や公的援助のシステムが充実していくなかで、もっとも復興を妨げるのは“人の心に隠された邪心”である。25年経った今、僕はそう断言します。

[0119 - 3366]

≡≡ 終わりなき道 ≡≡

復旧から復興へ

 25年前の今日。地震から一夜明けた神戸の街は依然として燃えていました。

 山の麓に建っていた実家の二階からの風景を見た母が「全部燃えとる」と叫んだのがこの日でした。
 長田地区を中心に広がった火災のことは報道でもある程度伝えられるようになっていましたが、テレビで知ることの出来るのはピンポイントの状況だったり、上空からの極めて客観的な光景だったりで隔靴掻痒な思いをしていた僕にとって母のように心情の伴った広角視線の話はショッキングそのものでした。

 神戸はこの日から復興へ向けて歩み始めました。呆然としている意識を奮い立て、涙をカラ元気に置き換えて、手探りで復旧への第一歩を歩み始めたのです。
 復興の前に復旧を。その前にいまだ見つからない人の救助と実情の把握。
 地元の消防や警察、地域住民が逃げ遅れた人を助けるための作業から始まり、到着に時間の掛かっていた自衛隊や全国の消防や警察が集まるにつれて、少しずつ少しずつ途方も無い惨状が見えてきたのです。

 地震から2~3年経った頃になると住宅地では燃え落ちた家屋が取り残されいたる所に更地が広がっていました。元町や三宮のような繁華街ではガランとした店で営業はしていました。
 地震直後、小さな小売店がそれぞれ壁面をガムテープで固定し、ろうそくや小型発電機で明かりを確保しながら営業していた湊川市場や東山市場では住宅兼店舗のビルを建てるための工事が始まっていました・
 そんななかでもっとも復興事業の取り組みが遅れたのが福祉でありPTSDへの対処だったのではないでしょうか。なにしろ、今のような大規模災害時の公的な取り組みシステムが整っていなかった時代のこと。この分野はどうしても二の次に取り扱われる存在だったのだと思います。

 その後、新潟中越、東日本、熊本とマグニチュード7以上の地震が日本を襲いました。手探りで復旧を進めた神戸での経験が、防災、消防、警察、医療、福祉、行政などあらゆる危機対応組織で咀嚼され、対策が確立されていきました。

 しかし、被災者の心のなかに残っている傷跡はいつになっても消えることはありません。“街が新しくなったから復興した”わけではないのです。いつまでも消えない傷跡とどう向き合っていくかという命題に答えはありません。あの時の惨状を思い出さないように目を背けるのが一般的でしょう。
 もちろん、歴史になり始めている惨状について語り続け、伝え続け、警鐘を鳴らし続けることで“傷跡が強くなる”ことはできるでしょうが。

[0118 - 3366]

≡≡ その日は突然に ≡≡

“惨劇の中で生きる”ということ

 朝6時過ぎに掛かってきた電話を最後に、神戸に住んでいた母とは1日半ほど連絡が取れなくなりました。
 何度もトライしてやっと繋がった電話に出た母がやつれた声で発した言葉のなかで
「家はボロボロやけど、みんな生きとる」
「空襲のあとみたいや、神戸が全部燃えとる」
「警報の鳴った空襲のほうがまだよかった」
「いつ揺れるか判らんし、人さまの迷惑になるから今は来たらいかん」
という4つのフレーズは今も忘れずに耳に残っています。

 SNSどころかインターネットさえ利用者が限られていた時代。コンピュータは当然のこと、携帯電話だってまだ今のように普及していませんでした。
 東京で暮らしていた僕は、徐々に地震の惨劇が伝えられるようになったテレビを呆然とした気持ちで見つめながら、時間が許す限り電話を掛けて安否確認をして、いざとなればすぐにでも行けるように準備しておこうとしか思うことが出来ませんでした。

 そんな鬱々と過ごす日が続いたあと5日目。10数時間を掛けてたどり着いた神戸の街は瓦礫の中に建物が建っているような状況で、僕が知っている神戸とはまったく違っていたのです。
 アスファルトの亀裂や波打ちや瓦礫の山を乗り越え、火事の後特有の匂いが漂う中、ようやくたどり着いた避難所でようやく母や親戚と再会。東京から持ち込んだ食料と生活雑貨を渡しながらも、何を話してもおためごかしでしかないことに気がつきました。
 5日目とはいえ、歩いている間に被災者の心境に近いものを感じるようになっていた僕の身体のどこかで「頑張って」とか「何とかなる」という励ましの言葉が空虚なものでしかないと感じていたのでしょう。

 余震に怯えながら、居場所を確保し、自衛隊から食料や水の提供を受け、行方不明になっている人を探す。まだ「多くの人が亡くなっている模様」としか判らなかった地震直後の神戸はまさに大混乱状態真っ只中でした。

 そんな混沌の中を生き抜き、復興に向けて動き始めた神戸の人たちにはいつの間にか「見知らぬ人とも共に生きる。人との繋がりこそ生きる原動力」という感覚が生まれていたのではないでしょうか。

 地震を冷静に捉えられるようになった数年後、知らない人でも困っていそうな人を見かけると優しく声がけするという「共に生きる」という視線が極めて早い時期に生まれたからこそ(見た目とはいえ)復興が出来たのではないかと思うようになりました。

 「手をつなぎ共に生きる」ことで生き抜く意欲と勇気を奮い立てながら、這い上がる。

 僕はあの時の神戸で生き抜いた人たちから大切な人生訓を教わったような気がしています。

[0117 - 3365]

≡≡ 25年前の1月16日 ≡≡

僕はなにげなく過ごしている日々の
ありがたさを知らなかった

 25年前の1月16日。いつもどおりに仕事を済ませ、いつもどおりに食事をし就寝する。僕はそんな“当たり前の日常”を過ごしていました。
 数日前には卒業以来初めて高校の同窓会のも出席して、おじさん、おばさんになった友人たちと楽しい時を過ごしていました。
 こんな「当たり前のように過ぎていく日々」がいかにありがたいものなのかを知ることになるとは思ってもみなかったといってもいいでしょう。

 次の日。1月17日6時過ぎ。当たり前だと思っていた暮らしのすべてが「地震やあ」という叫びに近い言葉からはじまった1本の電話で変わりはじめたのです。

 テレビを点けても詳細はまったく判らないばかりか、むしろ電話を掛けてきた母に何かあったのではと心配する程度。当たり前だと信じ込んでいた日常が文字通り一変してしまったなんて想像することも出来なかったのです。

 そして25年たった今。僕は“当たり前の日常”のありがたさを噛み締めながら生きていこうとしています。

………、

[0116 - 3364]

≡≡ 本日は無事終了 ≡≡

嵐の前の静けさと捉えていいのか

 昨日、急に浮かび上がった“予感”に備えて、準備だけはきちんとしておかねばと過ごした一日でした。

 午睡を貪っている居付き猫たちが薄目を明けて迷惑そうに見つめている中、狭い我が家をウロウロ、シコシコ。なんとなく目処が経ちそうな気配がしてきたところで本日は終了です。
 昨夜から始めた一連の準備が形となって動き始めてくれると「今年は春から縁起がいいわい」となるのですが、現実は……。

 「嵐の前の静けさ」なのか、それとも「勉強になった無駄足」なのか。

 どっちに転ぶかは賽の目次第。粛々と結果が出るのを待つことにします。

[0115 - 3363]