∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

≡≡ とうとう大晦日 ≡≡

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今年もお世話になりました

 今年ほど世の中が騒然とした年はなかったのではと思わせるほどのコロナ禍元年が終わろうとしています。振り返ってみると、ほぼ1年間コロナ禍とどう付き合っていくかばかりを考えながら過ごしてきたような気もします。

 来る2021年こそ、人間の英知と努力と自律がスクラムを組んで、正しくコロナと共存し、穏やかに暮らせる日々がやって来ますように。

 皆様、今年もお世話になりました。

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≡≡ 年末恒例のポトフ&シチュー ≡≡

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右往左往した一年間をリセットするために

 12月30日はポトフ。31日は、そのスープをベースにしたトマトシチュー。
 このメニューで過ごしはじめてかれこれ10年。もともと年末の忙しさのなか、夕食だけでも時間を掛けずに済ませたいという単純な思いで始めたものだったが、今や極私的な年中行事に変化してきた。

 当初は、そこまでの一年間がどんなに苦しい年だったとしても、年末だけはポトフとシチューで締めくくって、すべてをリセットしたいと思っていたのかもしれないが、時が経つにつれ、これでしめないと年の暮れじゃないだろうと思うようになっていた。

 そんな年の暮れの“定食”だが、今年は久しぶりにしんどかった年をリセットしたいと願ってしまった。

 今、ガス台に乗った小型の寸胴鍋の中ではショルダーベーコンとローリエと一緒に、じゃがいもと人参がホクホク、コリコリ状態になって休んでいる。あとでソーセージとセロリとキャベツを放り込んで仕上げれば第一日目は完成である。

 このポトフ&シチューでコロナ禍で右往左往した一年を洗い流して、新たな一年を迎えることができればいいのだが。

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≡≡ 年のはじめに慌てないように ≡≡

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いつもの米屋にて

 初荷にしてもいいけれど、松の内から慌てるのもいかがなものかといつもの米屋に行ってきた。もう20年以上お世話になっている米屋である。
 いつものブレンド米をいつもどおり七分搗きで仕立ててもらい、「良いお年をお迎えください」と挨拶を交わす。ただそれだけのことのはずだった。
 ところが、今年から「米屋のお餅」という名でちん搗き餅を売り出したせいか、大繁盛の様子で店主のおばさんは大忙し。店内を文字通り走り回っていた。私が入っていったときもいらっしゃいませのご挨拶だけで世間話は一切なく、何も聞かずに私用の米を搗きはじめてくれた。
 この店主がこんなに忙しそうに動き回っているのを見るのははじめて。ちん搗き餅の効果は絶大のようだった。
 例年なら正月は温泉で過ごしたり、実家に帰省したりしている家庭も、コロナ禍の今年は自宅で過ごそうということで正月準備をしているのかもしれない。

 餅ひとつで今年の正月風景はこれまでに見たことのないものになりそうだと感じるのは早計だろうか。なんらかのコロナ・バイアスが掛かっていることは間違いないように思う。
 今日の風景を見るかぎり、年明けにはコロナ禍も落ち着きを取り戻すのではないだろうか。いや、そうであってほしい。

 ちなみに和菓子屋で正月餅を調達している私には米屋の餅は無用なもの。お歳暮代わりに何かをと店主が選んでくれたのは南魚沼産のこしひかりだった。よほど大繁盛に気を良くしたのか、大判振る舞いである。
 お歳暮が南魚沼産のこしひかりとは。年の瀬にようやく幸運が訪れたような気分になった。

 まさに「良いお年をお迎えください」である。

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≡≡ 今年もあと4日だが ≡≡

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いつもと勝手が違う年の暮れ

 2020年12月28日。今年も残すところあと4日になった。

 例年なら一年を振り返りながら、それなりの締めくくりをしようとする時期だが、コロナ禍の今年はどうも勝手が違う。
 何をするにも、最初に考えるのは感染症対策。おせち準備の買い出しもサササッと済ませることになりそうだ。
 しかも、スジを違えて右腕が使えない状態である。つまり、掃除も片付けもままならないわけだ。

 おっかなビックリで過ごした一年の締めくくりが“右腕に難あり”になるとは思ってもみなかった。これを大誤算とみるか、天の思し召しとみるか。

 大掃除もおせち準備もしなくていいから、一旦身体を休め、来年に備えろというサインだと思うことにした。というか、そう思うしか過ごしようがないのだ。

 感染症と対峙するという生まれてはじめての経験ばかりで過ぎていく一年。コロナ感染ではなく、腕の痛みがおまけでよかったと思っておこう。

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≡≡ 片付け作業の果てに ≡≡

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慣れないことはやるもんじゃない

 気は進まないけれど、無理はせずにやれるだけやっておこう。

 朝から廃棄できそうなものを片っ端から捨てる“大掃除”に取り掛かったのだが、やり始めると10年以上前の資料や企画書など、今ではまったく使わなくなったものがごっそりと出てきたため“やれるだけ”なんて言っていられない状況になってしまったのだ。
 文字通り、出るわ出るわ。よくぞここまで取っておいたものだと我ながら呆れ返ってしまったが、途中で止めるわけにもいかず、ひたすらバッサバサと捨てていった。

 そして一段落ついた頃、ふと気がつくと肩から上腕部にかけて痛みが走るようになっていた。どうも、腱を痛めたようだ。
 右腕を前に出したときだけ腕全体にしびれるような痛みが走り、頭の上に持ち上げると痛みが収まる。そんな状態である。ちなみに、その痛みは時間が経つにつれ酷くなっている。そう、キーボードに打ち込む作業さえ、痛みをこらえながらになってしまっている。

 いかん、イカン。なんとか年内に治まってくれないものかと願うばかりである。

 それにしても……。突然慣れないことをやるとろくな事にはならないとよく分かった。まさに年の暮れの大反省、である。

[1227 - 3673]

≡≡ 今年最後の週末 ≡≡

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出来ることからひとつずつ

 毎年年末になると、ほとんど猫屋敷と化している我が家を人間仕様にしようと、頭の中では考えている。しかし、毎年実現できていない。
 掃除機をかければ猫たちが逃げ惑い、水仕事をしようとすればシンクの縁から覗き込み、スッキリした所があれば、わざとそこでオシッコをし始める子猫がいたり、わざわざ家の中で運動会を始めたり。仏壇の掃除をしている最中、その中に飛び込むどら猫だって出現する。

 やってもやっても我が家が一向にスッキリとしない原因はすべて猫たちにある。と、言いたいところだが、本当は……やりたくないのである。

 毎週末、それなりに片付けているんだから、年末だからといって特別なことをやる必要もないだろう。必要最小限の片付けや掃除に加えて、カレンダー交換などだけを済ませておけば、それでいいじゃないか。と、毎年同じように自分を納得させている。

 今年も同じようになりそうだ。コロナ禍の今年、世間では断捨離やDIYのリフォームが流行っているとも聞くけれど、我関せずである。

 目についた所をひとつずつスッキリとさせていく程度でもいい。自分が納得できるかどうかが問題なのだから。今年もこの逃げ口上で年末をやり過ごすことにする。

[1226 - 3672]

≡≡ コロナ禍の年の瀬に思うこと ≡≡

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気忙しさだけで過ごす特異な年末を
新たな生き方を集中して模索する期間に

 今日を入れて、今年もあと1週間になった。大掃除も正月準備も何も準備はしていないが、気持ちだけは年越し準備に入っている。
 ひっそりとしているのは仕事環境だけというのが気になるけれど、これだけは致し方ない。ここまで来ると、年が明けたら頑張ろうと思うしかないようだ。

 コロナ禍で明け暮れた一年。今年は時の経つのがめっぽう早かった。大袈裟に言えば、極寒期だった2月から一足飛びに次の冬がやってきてしまったような感じである。

 どうも私はアタフタと動き回っていないと生活実感が失せてしまうタイプの人間のようだ。理不尽に感じるほど急かされてもいい。締切にハラハラさせられてもいい。行きたい所に行くために走り回ってもいい。食べたいものがあれば太ってもいいからハシゴして食べてもいい。とにかく、毎日を濃密に過ごせればそれだけで満足してしまうのだ。

 それなのに、それなのに。
 人との繋がりはメールか電話で済まし、外食は我慢し、遠出はおろか外出するのも必要最小限に控えた毎日が続いている。

 今、私はせっかく特異な年を経験している年末なんだから、生き方そのものを捉え直し、新たなフィールドを模索する期間にしようと思っている。極私的な生き方改革である。

[1225 - 3671]

≡≡ はじめて経験するクリスマスイブ ≡≡

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見た目はダウンサイジングでも
つながりは濃厚に

 12月24日。クリスマスイブ。

 コロナ禍の影響で今年は経験したことのないクリスマスイブになりそうだ。
 とはいえ、親しい人と心のこもったプレゼントを交換し、温かい時間を過ごすという目的自体に変わりはない。要は、改めて人と人とのつながりを確認できればヨシとする、いわば、濃縮したエッセンスだけにフューチャーした日になるのだろう。
 密になりたい人とのつながりにも気を使わなかればいけないクリスマスイブを迎えるなんて夢にも思わなかったと戸惑っている方も多いのではないだろうか。

 クリスマスから新年へ。忘年会から新年会へ。なんとも人と接近する機会の多いことか。コロナ禍のおかげで年末年始がいかに人とのつながりにとって重要な時期だというのを体感できたような気もしている。
 キリスト教と仏教と神道を使い分けるなんて…などとヤボなことをいうのは止めておこう。節目の行事は人生の潤滑油でもあるのだから。

 それにしても、である。

 密を避けながらのクリスマスイブが終われば、次に来るのはお正月。密の上にも密を重ねるのが当たり前の時が来る。本音と建前が混在すること必至の忘年会と新年会だって忘れられない。

 どうしようと意気消沈したり、逆に、かまうもんかと無節操になる必要はない。見た目はダウンサイジングしたけれど、その分、心と心のつながりは濃厚になったと思えるような工夫さえあればこんな年のクリスマスだって楽しめると考えれば味わい深くなるはずだ。

 ……そう考えておこう。そうすれば記憶に残る一日を体験できるのだから。

[1224 - 3670]

≡≡ 今だからこそマスクを ≡≡

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慣れるな。侮るな。見極めろ。

 西村大臣から「最近マスクの使用率が下がっている」との発言があった。
 おっしゃるとおり。一時と比べると、さすがにノーマスクの人は少なくなったと思うが、口だけマスクやアゴマスクの人は増えているようようだ。

 息苦しいとか眼鏡が曇るからという具体的な理由で外している人がほとんどだと思うが、なかには、煩わしいとか面倒くさいと感じて、自分ひとりくらいとか、遠目で見ればやっている風で充分と「人の迷惑、顧みず」式に自己判断で外している人もいるようだ。

 感染者は増えるばかりなのに、いつまで経っても終わりが見えてこない現状にうんざりしている人が増えたのだろうか。それとも感染しても大したことはないと自己判断している人が増えているのだろうか。とにかく、「“コロナ禍に全集中”にはもう勘弁だ」と感じている人が増えているのは確実だろう。

しかし、マスクが感染予防の最大の武器であることは変わっていない。もう一度、コロナ禍が始まった頃の緊張感を思い出して、“抑え込む意識”をキープなければ、コロナが文字通りの未曾有の大惨事を引き起こすことは目に見えている。

 合言葉は「慣れるな」「侮るな」「見極めろ」である。

[1223 - 3699]

≡≡ 突入。風の時代 ≡≡

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木星土星の大接近が引き起こす
グレート・コンジャンクション

 天文学の世界では、今夜は約400年ぶりに木星土星が大接近する大天体ショーが楽しめるとちょっとした騒ぎになっている。
 一方、西洋占星術の世界では、今日は約200年に一度起こる「世の中を構成する元素(火・土・風・水)の組み合わせが変わり、時代の流れが変わるグレート・コンジャンクションが起こる節目の日と言われているようだ。


 しばらく前から私は、初めて聞く“グレート・コンジャンクション”と“風の時代”が気になって仕方なかった。けっきょく定義設定などは理解できなかったが、時代の流れが変わるということは分かった気になっている。
 これまでのよな「金銭や物質、あるいは権威」が重視される“土の時代”から「知性やコミュニケーション、そして個人」が重視される“風の時代”になっていくということらしい。それも今日を境にしてというのではなく、すでにその流れは変わり始めているということのようだ。
 言われてみれば、コロナ禍の中、従来なら考えもつかなかったような、“個”を前面に打ち出したコミュニケーションや生活指針が生まれ、現在進行系で進化し続けている。

 だからどうしたと言いたい点も多々あるが、要するに、価値観にしても発想にしても、従来通りを維持しようと意識せずに、荒唐無稽と思えるような転換であっても、時代の流れに見合っていれば臆することなくその発想を取り入れたほうが得策ということだろう。
 固定概念に囚われず、連携を忘れず、個人のスタイルを尊重する。つまり横並びや平準化の発想や思想から脱却して、個々に多種多様な生き方を模索する時代に突入したと言い換えてもいいかもしれない。

 たしかに時代の流れはこうなりつつある。

 ひょっとするとコロナ禍もこんな流れになってきたからこそ出現した激変要素のひとつなのかもしれない。

[1222 - 3698]

≡≡ 子年の「冬至」 ≡≡

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一陽来復
新たな流れに切り替わる転換点

 「冬至」。日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也(暦便覧)。

 一般的には一年でもっとも日照時間が短い日とされる日で、明日からは日が長くなり、一歩ずつ春に近づいていく、いわば上昇に向かう縁起のいい転換点の日である。
 ちなみに、天文学上の日の出や日の入りから逆算すると、日照時間がもっとも短い日という通説は当てはまらない。暦はあくまでも暦と理解しておけばいいのだろう。


 古来、暦では、冬至の(始まる)日は一年の始まりとされてきた。
 なかでも、子年の冬至は新たな12年周期が始まる日とされ、これまでの12年間続いてきた気の流れが新たなものに切り替わる日と言われている。
 また、冬至が「一陽来復(冬が終わり春が訪れ、新たな年が始まる時。悪気が続いてあと幸運に向かうこと。陰の気が終わり陽の気に変わる時)」と言われているのにも大きな意味がある。

 冬至は一年の始まりであり、12年間続いた気の流れが新たなものに切り替わる日。そして、よくない事が続いてあとに良いことが巡ってくる日と暦では教えている。
 つまり、コロナ禍に振り回された今年の冬至は極めて重要な転換点だと暦では教えているわけだ。


 極めて個人的だが、今年だけは、暦を信じて世の中の流れが変わってくれることを切に望むようになってきた。

 そろそろコロナ禍で明け暮れる日々とは決別して、新しい生活規範のなかで生き生きと生活できるようになってほしいものだ。

[1221 - 3697]

 

≡≡ 不気味な静けさ ≡≡

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毎日開催。子猫の運動会

 夜11時を過ぎると我が家の子猫たちは夕食後の眠りから覚めて運動会の準備をし始める。寝起きのぼんやりした神経を覚醒させるためか、静かに周囲の状況を確認したあと、家中を歩いて様子を確かめながら少しずつ動き始めたらアイドリング終了。大人猫たちが静かに過ごせる場所に避難したのを合図にして、突然、ドドドッと走り始める。時間は30分程度。おそらくご近所の方にも彼らの足音や騒音は聞こえているはずである。

 こんなに毎日派手に動き回るんだったら、外に出て走り回ればいいのにと思ってしまうが、夜の運動会はホームグラウンドで行いたいらしい。

 そんな運動会がそろそろ始まろうとしている。

 しかし、フィールドアスレチックの遊具のひとつと思われている私には大人猫たちと違って逃げる場所はない。必ず追いかけてくるのだ。

 そんな不穏な雰囲気に包まれている今、私も彼らのお相手をする準備、というか覚悟ををしないといけない時間になってきた。

 さあ、そろそろ遊びますか、どら猫軍団諸君!

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≡≡ 豪雪による立ち往生 ≡≡

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やっと開通。まずはひと安心

 「予測を超える積雪で2000台以上の車が立ち往生していた関越道がようやく2日ぶりに開通した」というニュースを聞いて、数年前に私自身に起こった“雪のバイパス・立ち往生事件”を思い出した。


 場所は八王子バイパス京王線北野駅を過ぎた辺り。上り坂が始まった所。時間は夜12時頃。雪は降り続けているけれど、新雪なのでスリップの可能性は少ないだろうと思っていたのだが。

 その場所に至るまでもストップアンドゴーを繰り返していたので、前を走る大型トラックが停車しても何も感じなかった。
 ところが、しばらくするとそのトラックの運転手が歩いてこちらに向かってきたのだ。何事かと思い、窓を開けて挨拶すると、彼は「とうとう停まりましたよ。これはしばらく掛かりますね」と言い残して、遠くに見えるコンビニに向かって歩き出した。よく見るとほかにも数人が停車中の車の列を通り抜けて同じ店に向かっていた。
 私は“ここで走り始めたらどうするんだよ”と思い、そのまま車の中に留まることにした。あとになってこれが素人考えだったことに気がつくが、その時は単なる渋滞だから待機するのが最善と思えたのだ。道路上で閉じ込められた経験のなかった私には、これが立ち往生だということが分からないだけでなく、対処の方法も思いつかなかったのだ。

 彼が車に戻ってからしばらく経った頃、その車の近くに数人のドライバーが集まりはじめたので私の参加することにした。渋滞の具合いから、その車の出発地や行き先、ここまで来るのに何時間掛かっているのかなど長距離トラックならではの「井戸端会議」が始まっていた。
 彼らは、いわばオブザーバー参加だった私に雪の高速で立ち往生したらどうすべきかを教えてくれた。彼らいわく、停まったら食料と水の確保と燃料の残量だけに注意を向けるだけにして、静かに動き出すのを待つことということらしい。
 ちなみに私の前に停まっていた大型トラックのドライバー氏は、新潟を出発して東京までに渋滞や立ち往生で20数時間掛かっていると教えてくれた。

 それから数時間。夜明けから数時間経って周囲の状況が視認されるようになった頃、ようやく立ち往生は解消し、私も路側帯に積み上がっている雪を見ながら脱出した。

 一睡もせず、深夜から早朝番組へと変わっていくラジオを聞きながら、キャンディ数粒とタバコ数本で過ごした数時間でも落ち着かず不安さえ覚えていたのに2日間とは。
 周囲で除雪作業が進んでいるのを見ながらのこととはいえ、不安と諦め、空腹やガス欠、同じ風景が何10時間も続くことから起こる精神的な不安定感など立ち往生したときには独特のストレスが掛かるものである。
 そんな厳しい状況に耐えたドライバー諸氏に、心から「おつかれさま、少しゆっくりしてください」と言わせていただきたい。

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≡≡ 国士無双はどこに ≡≡

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コロナ禍の今、
出でよ、天下無双の国士

 国士無双とはいっても麻雀の役満の話ではない。三国志の時代に生きた武将、韓信が「類まれなる武将」と言われたことから生まれた言葉である。天下に二人といない(無双)国を牽引する(国士)というわけである。
 街のならず者から「股の下をくぐれ」と挑発された時に「恥は一時、志は一生。切り殺しても仇討ち合戦になるばかりで何の得もない」と判断して股の下をくぐったという故事から生まれた“韓信の股くぐり”は彼の行動指針を指した言葉である。

 ──現状を把握して、将来を見据えた打開策と効果的な攻略方法を提案する力量を持っている──。三国志の中では、こんな若き韓進の才能を認めた劉邦が韓進を大将軍に抜擢し、他の武将から喝采を浴びたとある。つまり、韓進は時代のスーパーヒーローだったわけである

 国盗り合戦と感染症。場面はまったく違うが、もしコロナという闘いに劉邦や韓進が出てくればどんな展開になっていただろうと考えてしまった。

 国民の自覚と、医療関係者の無私の努力に頼らざるを得ない状態を続け、後手後手に回り続けている政策に接していると、現代の国士無双が打ち出す策でもない限り、いつまでたっても収束につながる“希望”さえ出てこないのではないだろうか。

 こんな否定的な考え方をしなくてもいい日常が戻ってくるのはいつのことだろう。

[1218 - 3694]

≡≡ 風邪もひけない冬 ≡≡

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クシャミ厳禁

 今日も寒い。冷気が身体を包み込んでいる。東京では寒いだけだが、地域によっては、突然の大雪で高速道路での立ち往生やスリップ事故も多発しているようだ。例年なら厳寒期の2月頃に見られる光景である。


 この冬は風邪ひとつひけない冬になりそうである。
 人混みのなかでクシャミをした途端、周囲からジロリと見られたり、距離を取られたりするするコロナの冬。マスクをしているからといって、近くにいても構わないという“存在許可”が貰えるかどうか不安になってしまう。

 今のところ、鼻水も出ていないし、咳やクシャミも出ていない。もちろん体温は平熱である。強いて言えば、寒さによって左肩の五十肩が酷くなっていることと、左足に神経痛の痺れが出てきた程度。いわば例年通りである。

 それでも今年は例年以上に体調に気をつけないと、人さまに要らぬ警戒心を抱かせてしまいそうだ。
 平静を保っているように見えて、実はコロナ禍回避に努めてピリピリしている方がほとんどという時代、“警戒の網”に引っかからないようにしないと妙に肩身の狭い思いをしそうである。

 予想していたとはいえ、今日の東京都の新規感染者は822名になった。過去最高である。さすがに比較的意識の低い若者たちの間にも感染予防意識が広がっていくかもしれない。

 ……妙なことだが、コロナが広がれば広がるほど、気兼ねなく風邪をひいていた時代が懐かしくなってくるのはどうしてだろう。

[1217 - 3693]